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2003-06-02

●先々週に課題を出し、出してもらった「レポートと感想」を出す学生が先週どっと集まったので、こういう方法は相互関係の拡充にはいいかと思い、先週は、手のひら大の「出席カード」(本来は出席のために用意されている。毎回色を替えて、学生がごまかえないようにする教員もいるらしい)の裏を使い授業についての「感想と意見」を書いて今週出してもらうことにした。こういうやり方が学生に積極性をうながすのか、今日も出席者は多い。しかし、カードだけをさっと出して帰ろうとする者がかなりいるのを見て、実情は、カードが持つプレッシャーのせいではないかと思う。それは先週から予想したことなので、今日は、「感想・意見カード」というタイトルの小型カードを独自に作ってみた。急いで作ったので、学生が名前を書くところへ、担当者であるわたしの名をプリントしてしまった。慣れないことはすべきではないのかもしれない。そもそもこういうこと自体、教師臭いではないか。こういう環境にいると段々そうなるのが恐ろしい。わたしは、教員だけをやっているわけではないが、大学で教えることは何十年も続けている。結局教師人生ではないかというなかれ。わたし自身は、大学でやっていることは、大学とは関係なくやっているパフォーマンスのリハだと思っている。

●1970年代のニューヨーク・カルチャーを考える。わたしは、この時代のニューヨークに「アメリカン・ドリーム」の終焉を見た。だから、この時代のカルチャーを「ニューヨーク・パラノイア」(New York Paranoia)と名づけた。「アメリカ」という味が薄くてどこでも同じ味(そうでもないが)の一元的な「アメリカン」から、非常にローカルでありながら、グローバルなニューヨーク・カルチャー、しかし、そこにあるのは、甘い「ドリーム」よりも狂気に満ちた「パラノイア」(妄想)、ただの夢よりも悪夢への移行。

◆真夜中のカーボーイ(Midnight Cowboy/1969/John Schlesinger)
月並みだが、大「アメリカ」の象徴的な場所の西部の青年がニューヨークへやって来てその異文化に衝撃を受ける話だが、個々のショットが70年代のニューヨークの「トランスローカル性」(translocalとtranslocalityという言葉は、インターネットにみられるようなローカルでグローバルな特性を表現するためにわたしが作ったが、いまでは世界的に使われようになり、translocationという言葉も出来た)、「パラノイア性」、そしてさりげなく示されるホモセクシャルの要素・・・。

◆タクシードライバー(Taxi Driver/1976/Martin Scorsese)
これも予想できる素材だが、欠かすことはできない。ニューヨークという都市の「パラノイア性」を見事に描いている。この映画のなかでスコセッシ自身がパラノイア丸出しの客を演じている。ニューヨークという都市とパラノイアの関係について、以前、渋谷で行なわれたシンポジウムでスコセッシと同席することがあった。そのときの映像を少し見せる。ここで彼は、かなりガードの固い答をしている。

◆セルピコ(Serpico/1973/Sidney Lumet)
ニュー・アメリカン・シネマの映画人に数えられたシドニー・ルメットの作品で、70年代の、公共機関や公共性がぼろぼろになってしまった時代の感じがよく出ている。この映画は、そういうことを否定的・批判的に描いているが、公的なものが衰弱するこういう時代には、都市の底辺からさまざまなエネルギーが吹き出し、猥雑ながらバイタリティのある都市文化が生まれるときでもある。

◆ミーン・ストリート(Mean Streets/1973/Martin Scorsese)
ニューヨークのイタリア人地区リトル・イタリーのイタリア系のマフィア予備軍的若者たちの話。『タクシードライバー』に先だってロバート・デニーロやハーベイ・カイテルが共演し、スコセッシ映画の方向を作った作品。