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2003-06-09

●先週集まった「感想カード」を読んだら、1週間の時間があるにもかかわらずかえって粗雑な感想が多いのに驚き、今日はもうやめようと、入口に用意するのをやめる。なかには、「出席カード」とまちがえて、名前と学籍番号だけ書いて出している者もいる。最悪。「特になし」と書いた人も何を考えているのかわからない。感想が「特になし」なら出さなくていいのに。定まった制度のなかでは何をやってもその制度の影響を受けてしまい、新しいことが活きない。これは、日本のあらゆる場面について言える。しかし、「こんなことをしていては日本は潰れる」といつも言いながら、決して潰れないところがまた日本。そういう危機意識のよそおいとあいまってバランスがとられているのだろうか? 何とも不可解な国である。わたしなんか、ずっとこういう日本の批判者・異分子・反体制だったから、そういうことは理解できないし、理解したくもない。結局、全員が目を輝かせて聞いてくれるなどということはありえないのだろう。いろいろな人がいて当然だ。しかし、日本でだって学生がもっと本気だった時代はあったし、海外に行ってレクチャーをすると、寝ているやつなど一人もいない。話し、見せたことが地面に水を流すように、目に見えて拡がっていく。それは、海外から来たやつがものめずらしいからそうなるのかもしれない。東経大でも、ゲスト講師を呼ぶと、みな普段より真剣な面持ちで聞いている。まあ、そんなもんか。しかしねぇ、「感想カード」はやめたということと、授業内容はウェブに掲載しはじめたということを話したとたん、席を立って出て行った学生がいた。それも、その一人は、去年わたしのゼミにいた人だ。そういうことが、いかにわたしが嫌っているかを知っているはずの人間が平気でそうするのもわからない。エルンスト・ルビッチの『生きるべきか死ぬべきか』(To Be or Not to Be/1942/Ernst Lubitsch)のリメイクである『メル・ブルックスの大脱走』(To Be or Not to Be/1983/Mel Brooks)に、ワルシャワの劇場でハムレットを演じるメルが、「トゥ・ビー」と名台詞を語り始めると必ず席を立つ若い軍人服の男がいるというシーンがある。わたしは、いつもこのメルの気分であり、去年の講義のときはこのシーンを見せ、「これだけはしないでねと」言った。今年もまた見せるか。

●1970年代のニューヨーク・カルチャーと社会を概観してもらうために、「スタジオ54」とアンディ・ウォーホルをとりあげる。まず、マーク・クリストファーの『54 フィフティ・フォー』(54/1998/Mark Christpher)のいくつかのシークエンスを取り出し、コラージュしたものを見せる。ニュージャージに住む19才のシェーン(ライアン・フィリップ)が、わずかハドソン河を1本越えただけなのにド田舎というコンプレックスをいだいているニュージャージーを出て、54に行き、予想に反してオーナーのスティーブ・ルベル(マイク・マイヤー)にすぐ認められ、54の仲間になっていく過程。映画自体は安いが、いかにも70年代のニューヨークを思わせるところが見どころ。マドンナも似たような根性(田舎から出て来た)と引き(目をかけてくれた人の)でのしあがったのだった。

●編集したシーンの最後に、アンディ・ウォーホルが、スタジオ54の地下のトリップ・クラブの常連だったことを描いているところを置き、ウォーホルの話に移行する。使うビデオは、キム・エヴァンスとラナ・ジョーケルの『アンディ・ウォーホル』 (Andy Warhol/1987/Kim Evans & Lana Jokel)。これは、最初、編集したものを見せ、途中から、もとのバージョンに替え、しばらく見せてやめ、映像のなかに出てくるバスキアの話に移る予定だった。ところが、(なんべんも見えているビデオなのに)実に面白く、ついつい最後の方まで見せてしまう。

●「感想カード」のなかに、「毎回さまざまな映像が見れて楽しい」といった多くの肯定的な意見に混じって、「ただ映画を見ているだけでもいいと思うが、関沢先生みたく生徒個人個人の能力を試す授業の方が身につくし、楽しいと思います」という否定的意見が1件あった。おそらく、わたしが、ときどき、思いだしたように(もっと長く映画を見せてほしいという意見をくんで)長く映画を見せるので、そういう感想が出てくるのだろう。たまに出て来て、しかも遅れて来て、たまたま長めの映像を見せられれば、当然そういう人素材の編集の苦労の跡などわからないから、そういう感想になるかもしれない。しかしですねぇ、こういう意見は、わたしは「関沢先生」が何をしているか知らないが、こういう意見は、クラブへ行って、「音楽ばかり聴くのもいいが・・・」、あるいはイタリア料理店に行って、「イタリア料理を食べてるだけでもいいと思うが・・・」と言うのと同じではないか? クラブの音楽は、DJの「編集」のサエを聴く場所でしょう。わたしの授業は、映像と語りで進めるVJスタイルの授業なのだ。それに、一体、100人近くいるはずの授業でどうやって「個人個人の能力を試す」のか? そういうのは、わたしは演習でやることにしている。もっとも、わたしの授業だって、「感想カード」は、結局は、「個人個人の能力を試す」ことになっているはずですがね。頭に手を当てて考えてごらん。