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2003-06-23

●5時限はあいだの休みが5分しかない(こういう設定は法外ではないか? 機材の設定だけでも最低10分はかかるだろう。違う校舎からの移動でも5分は短すぎる。時間ぎりぎりに前の授業が終わったら、その学生は必ず遅刻するだろう)ので、いつも、決められた4時25分には始められない。しかし、ちゃんと時間に来ている学生もいる。そこで、今回から、4時25分になったら、定時に来ている学生のために10分ぐらいの映像を流すことにした。
◆『座頭市』(製作・監督・主演/勝新太郎/1989)
勝新太郎の「座頭市」シリーズは、1960年代からずっと、勝新太郎の死まで、強い人気を保ってきた。この作品は、勝新太郎自身が関わった「座頭市」ものとしては最後の作品。勝の指示で真剣を使った息子の奥村雄大は、誤って殺陣師(加藤幸雄)の首を刺し、殺傷してしまい、不幸な最終作になった。しかし、最近、北野武監督・主演の『座頭市』がクランクインし、9月には公開の予定であるなど、関心が再燃している。
●リアリティの位相と強度/さまざまなリアリティ
●映像でもなんでも、われわれは、知覚の対象をリアリティの強度で評価する。「これはリアルだ」、「これはウソっぽい」、「これは、存在感がある/ない」等々。
●しかし、リアリティは、時代や環境とともに変わるのであり、映画だけをとってみても、時代と見られる場所(国や都市)によって異なる。
●とはいえ、いま、グローバリゼーションが昂進するなかで、映像に関しては「ハリウッド」的な映像のリアリティが「標準/スタンダード」になっている。すべての映像を「ハリウッド」映画を基準・尺度にして見てしまう傾向が高まっている。
●いくつかの例を見る:
◆SAMURAI FICTION (中野裕之/1998/風間杜夫・布袋寅泰他)
いわゆる「迫力」を追わない映像。
◆M:I-2 (Mission: Impossible II/2000/John Woo)
ハリウッド映画は「ドリーム」であり、ハリウッド映画産業は「ドリーム・ファクトリー」(夢工場)だという説。すべてが「夢」なら、殺人も破壊もみな許される?
●問題→もし、映画が「夢」だとしたら、映画による「社会批判」とは何か? 「ネオ・リアリズモ」とか、「リアリズム」とはどうなるのか?
◆プライベート・ライアン(Saving Private Ryan/1998/Steven Spielberg)
たしかに、ここには、軍や政府が行なう「救出作戦」の政治性(徴兵で兄弟中3人が戦死し、残りのジェイムズ・ライアン(マット・デイモン)が死ぬと、両親はすべての息子を失うことになり、国民の戦意にもひびくことを恐れた政府・軍がミラー大尉の小隊にあらゆる犠牲を払ってもライアンを救出することを命じる。高齢のライアンが戦没者の墓地を訪れ、はたして自分の人生には意味があったのかと自問するシーンとその背景に映る白い無数の墓標が印象的。
◆しかし、この映画も単なる「夢」を描いているのではないか?
●映画が、リアリティの域や層を教えてくれないのら、映画は「夢」か作りものの「現実」でありつづけるだろう。
◆マトリックス(Matrix/1999/The Wachowski brothers)
・一般にこの映画の「見どころ」と思われている個所
・肉の世界(深海)とヴァーチャル世界1(サイバー・テクノロジーで身体を自在にあやつれる)と2(通常の街)との差が見えるシーンをクリップ。
最近『マトリックス・リローデット』が公開されたが、前作にくらべて、こちらは、単純化されている。前作『マトリックス』では、身体世界とサイバー・スペースとの境界や域がくり返し示され、これら二つの世界お行ったり来たりする様が映画の要だった。