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2003-06-30
●先週、ゲストで来ている高校生から面白い質問があった。「先生、感動できる映画ありませんか?」わたしが「?!」という顔をすると、「泣ける映画ですよ」と前の問いを補足した。「う~ん、泣ける映画ね・・・」「それは、あるけど、泣けるということと感動するということは同じゃないよ」――これがわたしの答だった。こういう感動の定義は、世間でもよくある。プロばかりが集まる試写会などの席でも、「・・・(映画作品)どうだった? 泣けた?」というような会話が聞こえることがある。そして、これは、日本に限ったことではなく、たとえば、ウディ・アレンが主演したマーティン・リットの傑作『ウディ・アレンのザ・フロント』(The Front/1976/Martin Ritt)(フィルムで上映されたときのタイトルは『ザ・フロント』だったが、ビデオ版ではやたら「ウディ・アレンの」を付ける悪い習慣がある)のなかに、名優ゼロ・モステロが演じるテレビの司会者が、「今日のストーリーは泣けるよぅ」と語るシーンがある。というわけで、今日は、「感動」と「泣けること」の関係について考えてみることにした。

◆フランコ・ゼフィレッリ監督『チャンプ』(The Champ/1979/Franco Zeffirelli)の最後の16分を上映。(これは、先週から授業開始時間の16:25きっかりに上映を始めるイントロを兼ねる)。
この場面で、盛りを過ぎた元世界チャンピオンのボクサーのビリーが、愛する(それ以前のシーンで2人が引き離されたりするシーンが描かれる)息子T.J.のために無理をし、結局、勝負には勝つが、脳へのダメージのために控え室の戻り、急死する。T.J.を演じるリック・シュローダー(当時9歳だった彼はいまも『クリムゾン・ダイド』(Crimson Tide/1995)や多くのテレビに出演している)の名演技で、「泣かせる」映画No.1と見なされてきた。
●いちいち感想をきいてもよかったら、一部ですすり泣きの声が聞こえたので、さしさわりがあるとまずいので、やめた。が、わたしの言いたいのは、こういう映画はフェアーでないという言い方も可能であるということである。ポルノを見て興奮する人とそうでない人とがいるとしても、多くの人は興奮する(だからそういうものがある)。この映画は、それと似た技法を使っている。子供である。子供は「無垢」、「純真」、「素直」といった先入観をつきまとわされた存在である。ちなみに、フランスのアナール学派(「アナル」ではない――最近『「アナール」とは何か 進化しつづける「アナール」の100年』[I・フランドロワ編/尾河直哉訳/藤原書店]という便利な本が出た)の研究によれば、そもそもいま考えられている「子供」という観念自体が近代の産物であり、たとえば、500年以前には、子供が「無垢」、「純真」、「素直」であるといった考えからはなかった。とはいえ、いまの時代には、そういう「子供」観があたりまえになっているので、子供の悲しみや訴えは、極めて悲痛に響く。大人は耐えられない。この映画は、そういう大人の弱みに付け込んでいるところがある。映画は、どのみち観客をだますわけだが、それは、あまりにあざといやり方ではないかという批判も可能である。
●現代演劇に多大な影響を与えたベルト・ブレヒト (Bert Brecht/1898-1956)は、今年生誕105周年ということで、あちこちで記念の催しがあるが、彼の主張は、「非アリストテレス」演劇だった。つまり、彼によれば、これまでの演劇は、アリストレレス以来、つまり2000年まえから、主人公や登場人物への「感情移入」や「同化」を基礎としてきた。それは、ある意味では、演劇が観客(の感情)をいいように振りまわすことであり、観客の側からすれば、観客が舞台に拘束されることを楽しむ、極めてマゾヒスティックな状況設定である。そろそろ、観客は、そういう奴隷状態から反旗をひるがえし、自律していいのではないか? 観客が意味を決めるというような舞台があっていいのではないか? ブレヒトは、そういう方法を「胃化効果」(Verfremudung EffektないしはV-Effekt)と呼び、それは、意識的ではないにしても、たとえば風刺劇とか、中国の京劇とか、あるいは日本の歌舞伎や能とかのなかで使われていると言う。

◆インターネットで採集したブレヒトの顔写真を見せる。
●「異化効果」とは、演技のなかにある種の「距離」をしのび込ませることであり、前に問題にして「批判の回路」を挿入することである。ウディ・アレンの映画がおかしいのは、同じ演技や身ぶりのなかにそういう「距離」や「回路」が入っているからだ。この点において、「泣ける」映画は、そういうものをかぎりなくゼロにすることによって成り立つ。ふっと何かを考えさせたり、笑わせたりするよりも、ぐんぐん一つの感情に向かって追い込んで行くのが、ハリウッド的「泣かせ」映画の技法だからである。
●ブレヒトは、『新しい俳優術』(ベルト・ブレヒト演劇論集2/河出書房新社)などのなかで、1920~30年代に圧倒的な影響を与えたモスクワのコンスタンチン・スタニスラフスキーを徹底的に批判する。彼こそが、近代・現代演劇に「感情移入」の方式を定着させた元凶であると言わんばかりである。しかし、実際、ハリウッド映画の技法を決定づけたアクターズ・スタジオ(ちなみに、いま名優と言われているマーロン・ブランドからロバート・デニーロにいたるまで、みなこの俳優学校の卒業生である)の創立者の一人であるリー・シュトラスバーグ(Lee Strasberg/1901-1982)(その顔と演技は、たとえば猛烈怖いシンジケートの親分を演じている『ゴッドファーザーPART II』で観ることができる)は、スタニスラフスキー・システムをモスクワからアメリカに持ってきた重要人物の一人であり、その意味で、ハリウッド映画は、少なくともトーキーになってからのそれは、ブレヒトが批判する「アリストテレス演劇」の流れを忠実に継承しているのである。
◆「モリタート」(ソニー・ロリンズ/テナー)(CD/Saxophone Colossus/VICJ60158)をちょっと聴かせる。
ブレヒトの名を知らない人でも、「肝っ玉おっかあとその子供たち」や「三文オペラ」の名はどこかで聞いたことがあるだろう。「モリタート」は、ブレヒトがいっしょに仕事をしてきた音楽家クルト・ワイル(Kurut Weill)が「三文オペラ」のために書いたソングであり、さまざまな演奏家が演奏している。
●ただし、「泣ける」映画にしても、そのなかにはさまざまな位相があることに気づく必要がある。そして、そういう位相に気づくこと(批判的に観ること)が、ハリウッド映画を単なる「感情移入」専門の映画にとどめない方法であり、それが、観客になしうる能動的な映画の見方だろう。

◆そこで、次に、スティーヴン・シュピルバーグの『A.I.』の最初の方にある「ファミリー・ドラマ」を観て観よう。これは、A.I.=Artificial Intelligence(人工知能)が発達し、人間と同等のロボットが誕生している時代の話で、人間は、そういう「ロボット」と共存できるのか、機械と生身の身体との差異はどこになるのか、人間はこのままテクノロジーが進んだ場合どこに行くのか・・・といった文明論的な問いを追求するスピルバーグ映画の傑作の一つである。
◆が、これから観てもらう部分では、多くの観客が涙をしぼったと言われている。その部分は、高性能ロボットを作る会社に勤める男とその妻との間に生まれた子供は、不治の病にかかり、病院にあづけられている。その落ち込みようを心配した所長が、彼に「人間そっくり」の子供ロボットを提供するところからドラマが始まる。
◆妻は、初め、その「子」デイヴィッドに非常に抵抗を感じる。だから、パスワードを入れて、「本当の子供にする」のをしばらくためらう。が、次第にその「子」がかわいくなって、パスワードを入れる。その瞬間から、デイヴィッドは、彼女を「マミー」(おかあさん)と呼びはじめ、いまより、一段と、「子供らしい」純真さと「母」への愛情を示すようになる。が、親子の関係が非常にうまくいきはじめたとき、予期しない出来事が起きる。それは、回復不能と思われていた「実子」が、意識をとりもどし、実家に帰ってくることになったのである。以後、この実子とデイヴィッドが同じ家庭で済むことになる。実子は、やがて、デイヴィッドにいやがらせや意地悪をするようになる。そして、夫婦には、とても2人をいっしょにしてはおけないし、デイヴィッドは危険な存在なのではないかという疑問が生じ、デイヴィッドをドボット会社に返すことになる。「泣かせる」場面は、母親(妻)が、デイヴィデオをロボット会社に自分で運転する車に乗せて連れて行くが、会社に渡せば廃棄処分になってしまうことを哀れに思い、彼を森に放置する場面である。
◆わたしは、この映像を観て、受講者たちが「泣いた」かどうかは知らない。が、少なくとも、アメリカのミドルクラスの平均的な意識のなかでは、この一連のシーンは、「身につまされる」。というのは、離婚率が高く、また養子を迎える習慣の強いアメリカでは、血のつながらない親子のコミュニケーションの問題、血のつながりのある子供と、相手の連れ子との折り合いといった問題が、日々、深刻な問題としてある。そういう経験のある者がこのシーンを観ると、これは、ロボットの子供と親との問題というよりも、連れ子や養子の子供と親との関係として観れるのである。自分を「マミー」や「パピー」と呼んでくれない連れ子や養子に悩む親に取っては、素直にそう呼んでくれるデイヴィッドは「感動的」である。とにかく、デイヴィッドは、親とりわけ母親を愛するようにのみプログラムされている。
●「泣ける」といっても、そこには、さまざまな社会条件や文化が介在しており、ボタンを押せばすぐに泣く「ミルク人形」のようなわけにはいかない。とすれば、「泣ける」かどうかのなかにも、さまざまなタイプがあるわけだから、「泣ける」かどうかということを映画の評価の基準の一つにするとしても、それはまちがってはいないだろう。あくまで「基準の一つ」としては。しかし、そうだとすれば、「笑える」かどうかということも、同様に、「基準の一つ」になりえるだろう。なぜ、映画の評価の基準として、「泣ける」かどうかよりも「笑えるか」どうかをもっと主要な基準にしないのだろう? そんな言い方をする人はあまりいない。だが、「泣く」よりも「笑う」方が、より積極的な情動であるという考えは古代からある。これについては、また、別の機会に考えてみよう。
●あっと言う間に前期が終わろうとしている。来週は、前期最後で、恒例の「レポート」の時間だ。受講生には、現場で「レポート」を書いてもらう。いま、まえにも書いたように、東京文化高等学校の女子校生4人が新しい制度のもとで「メディア論」を聴講している。彼女らは、高校の定期試験の都合で来週出られないので、今日、「レポート」を出してもらった。一読して、レベルが高い。授業についての感想も、これまで大学の受講生が書いたベストのものとくらべて遜色ない。ということは、東経大生が手を抜いているか、ダメかのどちらかだろう。そういう高校生も、大学に入るとダメになってしまうのか?
●なお、感想のなかに、「以前、他の大学の授業を受けたことがあるが、高校とあまり変わりがなかったのに、東経大の授業は全然違っているに驚きました」というのがあったが、これは、わたしの授業がちがうのであって、他の授業はもっと「まとも」であることを付言しておきたい。わたしの授業を「標準」と思って来たら、失望するでしょう。といって、もうわたしの授業を取ってしまったから、来年受けてもしょうがないですね。これでは、新しい試みが裏目に出てしまうか? でも、正直なところ、大学の授業などは、受験ですっかり疲れてから受けるよりも、高校や中学で学習ということに関してまだ積極的なときに「もぐり」でもあるいは「聴講」でもした方がいいたぐいのものではないか? いまの大学生がダメだとすれば、それは、制度がダメだからだ。せっかくの才能や意欲を損なわせるような制度や組織に問題がある。