メディア論 TOP
2003-07-07
●運の悪い日というのはあるらしい。この日、最終日なのでいつもより早めに大学へ向かった。新宿駅では特快に乗れ、これなら相当早めに大学に着き、(機材の調子が悪いので有名な――だから「スイタジオ」に換えた)F307教室の機材の点検もできるわいと思った。ところが、三鷹まで順調に進んだ電車が三鷹を出てすぐ、駅のないところで停った。しばらく何のアナウンスもないまま停止し、10分ほどして「東小金井駅で人身事故・・・」という。そして、またしばらくして、「隣の武蔵境駅まで行きますがこの電車は特別快速なのでドアーは開きません」というアナウンス。中間を省略すると、結局、ドアはしばらくして開いた。こういうとき、わたしはすぐに駅を出てタクシーに乗ったりするのだが、そんなことをしてかえって(なかなかタクシーが捕まらなかったり、すぐに電車が出たりして)遅くなってしまったことを思いだし、そのまま電車のなかで待つことにした。あとのことはもう書かないが、50分以上も発車せず、大学にタクシーで飛び込んだときは、開始時間を15分以上回っていた。
●教室は、一部の学生が、「腰が疲れる」などと年寄りのような苦情を言っているらしいので、スタジオから椅子と机のある教室に変更した。ここは、いつも機材の調子が悪いので変更した悪名高き部屋。「腰が疲れる」などと文句を言う学生は、最良のメディア条件で講義を提供したいというこちらの意図を理解していない。
●とるものもとりあえず、しゃべりを開始しながら、機材の準備をすることになったが、以前から直してくれるように学務課に注文しておいたのに、OHCの蓋が開かない。鍵の部分が壊れているのだ。しかたなく、(機材を壊すといけないので)「開けてはいけない」ということになっている扉を開き、後ろから押してやってやっと開く。そのとき、内部のささくれで腕に傷をしてしまう。やはり「開けてはいけない」場所だった。一体、「マルチメディア装置完備」ということになっているこの教室は使われているのだろうか? 他の教員はどんな機材を使って授業をやっているのだろうか? コンピュータもOHCもビデオもレーザーもDVDもという教員はあまりいないのだろう。
●この日は前期の最終。めったに出て来ない学生も出てくる。レポート提出があるといううわさを流しているからだ。これは、所詮、人集めの戦略にすぎない。単位で学生をしばるなどということはやりたくないし、やったこともない。望んでいるのは、1度でもいいから話をきいてもらいたいということだ。こちらは、自分の知っていることや経験を他人と共有したいという気持ちだけで教師をしている。学生の方には、大学に来る色々の理由があるだろう。それも、これから話す「さまざまな現実性」の一つの現象だ。だから、教室に来て寝ている(今日も前の方で最後まで寝ていた学生がかなりいた――こういうヤカラにはどんなに刺激的な話も映像も無力である)のがいた。単位を取るだけのために大学に入る者もいるだろう。そういう学生にとっては、授業の内容は無関係である。どんなに面白い授業をやっても、出ては来ない。ま、それもいいだろう。しかし、自分から言うのもナンだが、世界的に見てもそう水準の低いとは思えない話や仕掛けを見せているわたしの授業をコミュニケーション学科に入り、しかもわたしの授業を登録しながらきかないというのは損ではないかとおもうのだ。要するにおせっかいである。
●ビデオを回しはじめてまた事故というより予想された事態に直面する。ビデオのコントロールがタッチパネルからはできない。いちいちデッキ本体で操作しながらビデオを映しているうちに、今度は、プロジェクターから光がもれなくなった(これもこの部屋でよく起こるトラブル――依然直っていない)。何度かリセットして切り抜けた。ね、わかったでしょう。こういうわけだから、「腰が痛く」ても、スタジオでがまんしてね。クッションまで用意してあるんだから。聴講の高校生のように、床に寝そべって聴けばいいのに。

●今年の「メディア論」は、さまざまな現実性/リアリティ/面白さ/「真実」について触れながらイラク戦争の話からはじまった。毎日マスメディアで戦闘状況が報道され、テレビは現場の「ライブ映像」流した。それは、基本的にアメリカのテレビやハリウッド映画の技法とスタイルで撮られ、編集された映像であり、前にも書いたが、「G・W・ブッシュ製作、ドナルド・ラムズフェルド監督の超長編テレビ映画」であった。従って、そこでは、「やらせ」はあたりまえだし、何が「現実」で何が「嘘」かというような問いや批判は機能しないのだった。これでは、イラク戦争に反対するにせよ、賛成するにせよ、イラク戦争について語ったり、行動したりすること自体が、根拠のない、プロデューサー・ブッシュに踊らせられているだけになりかねない。大半の人がイラク戦争についてテレビを見て反対や賛同をしているからである。
◆[映像資料]「戦後」のバグダット市内を撮影したニュース「ドキュメント」(4チャンネル、5月15日放映)
手振れの多い、明らかに「アマチュア」が撮影したと思われる映像。が、それだけにかえって「臨場感」がある。しかし、こういう撮り方もいまではハリウッド映画やCMのテクニックの一つになっていることを思うと、この映像の「ラフ」さをもってその「現実性」や「真実性」を認めるわけにはいかない。それが「現実」のバグダット市内の光景(「死臭」のただよう防空壕、「フリーズ!」とどなって通行人を地面に這いつくばらせるアメリカ兵、略奪者だとして車のイラク人を拘束するイラク人の自警団・・・)だとしても、それを鵜呑みにはできないのだ。してもいいが、それをもってイラクの「現実」を嘆いたり、それに怒りをおぼえたりするのは単純すぎると思う。
●マスメディアの問題は、その一方通行性にある。映像にしても活字にしてもどこかで編集され、手を加えられ視聴者や読者のもとに届けられる。それがどのように作られたかというプロセスは明かされない。たとえ明かされるとしても、それは「製作者」側の一方的な説明としてでしかない。つまり、視聴者や読者が〈アクセス〉することができないようになっている。たとえば、インターネットの場合、最低限ウェブページの「ソース」を見ることはできるし、どの「サーバー」から発信されているかもわかる。それと、インターネットは、本質的にアクセス・メディアであり、ユーザーがアクセスしなければ、機能しないメディアだ。作り手/発信者とユーザーとがインタラクティヴに関係することによって成り立つメディアである。しかし、マスメディアはこれとは本質的に違う。
◆[映像資料]『チャーリーズ・エンジェル フルストットル』(Charlie's Angels:Full Throttle/2003/McG)の1シーン(3人のエンジェルが軍用車でダムの橋から落ちるシーン)
これは、通常の「現実性」からは程遠いが、映像的には「リアル」である。われわれが、何かを「リアル」だとか「存在感」があると言うとき、その現実性/リアリティは、われわれがこれまで慣れ親しんできた現実性との関係で測られている。だから、別な文化や社会で生きてきた者にとっては、その現実性は同じではない。この映像に全くリアリティを感じない者もいるし、リアリティというものはそういうものなのだ。

◆[映像資料]シュールレリズム的な絵(エロ Erro、M・C・エッシャー、キース・ヘリングなど)を数枚OHCで見せる。

◆[映像資料]マドンナの「アメリカン・ライフ」のフレーズと、Ryoji Ikeda/Carsten Nicolaiの「Cyclo 」(2001)の一部を聴かせる。
対極的な音だが、どちらが「リアル」だと問うことはばかげている。ノイズサウンドに親しんでいる者には、前者よりも後者の方にリアルさや面白さを感じるかもしれない。マドンナの局はわかるが、イケダ+ノコライのものはどうしようもないと言う人もいるかもしれない。しかし、音楽や音そのものが、そもそも、他の音との「参照的」(referential)関係差のなかで「意味」や「リアリティ」を持つ。これは、フェルディナン・ド・ソシュールが言語に対して言ったことと全く同じである。言語は、それ自体が意味を持っているのではなくて、他の言語との「差異」、他の「記号」(「シニフィアン」)との関係差ののなかで意味を持つ。音楽も基本的に「差異」だけで成り立っているシステムである。
◆[記号論の基礎参考文献]フェルディナン・ド・ソシュール『一般言語学講義』(小林英夫訳、岩波書店)、『ソシュール講義録注解』(前田英樹訳、法政大学出版局)、簡単にソシュール理論(記号学/記号論/セミオティクス/セミオロジー)を知るには、ジョルジュ・ムーナン『記号学入門』(大修館)が便利。
●マスメディアの「やらせ」が批判されることは多い。しかし、ある意味で「やらせ」や「演出」や「仕掛け」のないメディアというものはない。
◆[映像資料]『トゥルーマン・ショウ』
◆[映像資料]『エドtv』
両者は、総監視化社会への動きを先取りして批判した作品である。しかし、この映画が公開された時点ではまだ「批判」に意味はあったかもしれないが、いまでは、こうした「監視」や「プライバシーの侵害」はあたりまえになりつつある。だから、「批判」では不十分なのだ。
◆[映像資料]『ワグ・ザ・ドッグ』
クリントン時代のアフガン攻撃を暗に批判しながら、テレビの映像操作がいかに行われるかを描いている。しかし、これも、この時点では映画のなかのお話として見れたかもしれないが、いまでは、そういう映像操作の技術があたりまえと化した。
◆[映像資料] descreet社の映像編集ソフト「flame」による映像処理
このソフトを使うと、最初に荒く撮った映像を集めて、全く視角の異なる映像にしたり、元の映像にない人物や物を動画としてはめ込むことが可能だ。動きの変化を変えることも可能。だから、「被写体のない映像」が可能なのであり、「何がホンモノか?」と言っても、意味がない状況になってきているのだ。ここでは、単純な「やらせ」批判は無意味である。
●「出席カード」を利用してメモ的な「感想」を書いてもらう。まだ全部見ていないが、映像を操作する技術のすごさに驚き、恐怖を感じたという意見が何枚も見えた。「スタジオのよさをあらためて実感した」という意見があった。「1年のときに見た映像が多い」という批判は鋭いと思う。全体的には多くはないが、以前担当していた「フレッシュマン・ゼミ」か「日本文化論入門」で使ったもの(『トゥルーマン・ショウ』など)を見せたので、そう感じたのだろう。しかし、初めての人も多いので、どうしても見せたい基礎的なものがダブるのはいたしかたない。