「記憶喪失といっても、全く記憶を失ってしまうのではなくて、記憶の時間性がランダムになったり、ブツ切れになったりするのです。
あなたの場合は、新しい記憶が非常に『ショート・ターム・セトルメント(短期決済)』型になっているのよ」
セント・ヴィンセンツ・ホスピタルの医者はあなたにこう言った。いや、たしかそう言ったと思う。
「記憶を回復するためには回想を形にすることが効果的です。今日から昨日へ、そして昨日からさらにその前日へとさかのぼる日記を書く努力をしてみるのね」
「しかし、今日一日のことは思い出せても、昨日のことが思い出せないんです。というよりも、どれが昨日のことなのかがよくわからない。昨日ともっと前の時間とが交錯しあい、なにも思い出せなくなるんです。」
「じゃあ、歩いてみたらどうですか? 街をさまよい、自分の足に沈殿した記憶で言葉の記憶を呼び戻すの。どこでもよいから、記憶のある場所を歩いてみることです」
「それは、いい考えかもしれませんね」
「あなたの体が保持している記憶はあなたを裏切らないでしょう。意識のなかでは前後関係を失っている場所を歩行の流れのなかに置きなおしてみるのです」
「でも、何百回も歩き回ったこの街の記憶が時間的な前後関係を失ってしまったら、それを足の素朴な無意識的記憶で整理しなおすことなど出来るのでしょうか?」
「でも、いまは歩くことだけが頼りです。歩き、どこかに明晰な記憶の痕跡を見出すことです」