ネットサーフィンとは、インターネットのユーザーがホームページのリンクをたどりながら、サイバースペースをサーフしていくことであるが、この言葉は、アメリカの雑誌『ワイアード』の編集者が「チャンネルサーフィン」からヒントを得て作ったという。チャンネルサーフィンとは、チャンネルをあちこち切り替えながらテレビを見ることである。
新しいメディアは、既存のメディア形式に〈寄生〉するところから発展する。テレビは、映画の技法をまね、視聴者の方も、テレビ画面のなかに「小さな」映画を見た。 しかし、テレビが「チャンネルサーフィン」のようなやり方で見られるようになるにつれて、テレビは映画への〈寄生〉を完全に清算する。観客が映画館で映画を好きな画面だけ選んで見ることは、少なくともこれまでは不可能であり、「チャンネルサーフィン」は、映画の見方とは一線を画するからだ。
ウェブページのネットサーフィンから出発したインターネットは、まさに、映画を脱したテレビ(「ポストテレビジョン」)に身をすり寄せたことになる。そして、今後ますます、テレビの機能に〈寄生〉しながら、それを食い尽くしていくだろう。そのとき、「チャンネルサーフィン」とは、実は、テレビの終末現象であったことが回顧されるかもしれない。すでに、最初からコンピュータのモニター上でテレビ放送を見ることができるようになっているTVチャンネル付のコンピュータも出まわっており、人々は、今後、コンピュータでテレビを見るのが普通になるかもしれない。
テレビは、映画とちがって環境化する特質がある。だから、視聴者は、その画面を凝視するよりも、漠然と〈ながめる〉ことに慣れる。これに対して、〈サーフ〉とは、波に乗るとはいっても、決してぼんやりながめるような意味での受動的な行為ではない。 日本の場合、チャンネル数が少ない上に、それぞれの局の番組に個性がないので、サーフィンの醍醐味は味わえないが、「デジタル多チャンネル時代元年」といわれる一九九七年以後は、テレビゲームの感覚でテレビをサーフする見方がもっと一般的になるかもしれない。
インターネットは、こうして、当分のあいだ、テレビの環境化的、受動的な性格を受け継ぎながら、次第にコンピュータ本来の特性をあらわしていくはずだが、効率のよい「テレビ」という使い方が、当面、インターネットのトレンドである。あらかじめセットしておくと自動的にネット上をサーフして、画面やデータをセーブしてくれるような受動的なソフトが出来ているのも、そのあらわれである。
インターネット自体は、発信と受信を同時に行なえる双方向のメディアだが、この特質は、それが本領を発揮すればするほど、全般化せず、逆に少数者のなかにひきこもる傾向がある。いまインターネットで進行しつつある関係は、一部の発信者と大多数の受信者という偏ったものであるが、それが今後ますます強まることはまちがいない。 その結果、少数者が世の中を動かす傾向が強くなるわけだが、これは、かつての寡頭政治とは異なり、その少数派と多数派との関係はつねに流動的である。今日受動的にふるまっている者が、明日は世界を動かしているというような劇的なことがくり返されるのである。ある種の「階級差」は拡がるが、その階級はつねに組み替えられるのであって、安定した寡頭階級は存在しえない。
しかし、いずれにしても、受動的な多数派の層は厚くなるわけだから、全体としては、いまよりはるかに受け身の状況が支配的となるだろう。「嗜眠」、「耽溺」、「中毒」といった言い方で表現できるある種の世紀末文化はコンピュータが浸透する社会では避けられない。
以上は、コンピュータの使われ方が、いまのまま進んだ場合の話だが、もし、コンピュータに対して別の選択がなされるならが、これとは違った方向が生まれる可能性がある。
コンピュータは、通常、われわれの知覚や認識を拡大する装置だと考えられているが、そうではなくて、むしろそれは、われわれの知覚や認識が鈍化するからこそ要請される装置なのだと考えることもできる。実際、記憶をとってみても、コンピュータへの依存がますます深まっているわれわれが、以前よりもいかに多くの能力を失っているかは明らかだ。
しかし、ここでコンピュータと縁を切ったところで、もとの能力が回復されるわけではない。それならば、むしろ、コンピュータがなければ生きられないというような状況――「無能」の極限に自分を追いつめてみる方がよいのではないか? コンピュータは、まだ、そこまでわれわれを追いつめるほど進化していないのだが、おいおいそのような条件はととのうだろう。そして、そのとき、われわれは、これまで無視してきた「弱者」や他者と本当の対話をする次元に出会うことができるのであり、少なくともテクノロジーからそのような可能性を引き出すのでなければ、われわれの未来には、いつ終わるともしれない嗜眠状態が続くだけだろう。
(「世界を読むキーワード」、『世界』臨時増刊号、1997年4月、pp.90-91)