AUTONOMOUS ZONE [5]

最近、映画で「インターナショナル」の歌を二度耳にした。一度は、原田眞人監督の『バウンス ko GALS』のなかで、もう一度は、Wolfgang Petersen 監督の『エアフォース・ワン』[*原題はAir Force Oneで、片仮名表記ではエアのうしろにナカグロが必要だが、公開タイトルではないので、それに従う]のなかでである。
前者では、役所広司ふんするインテリヤクザが、手なずけた渋谷の「援助交際」ギャル(佐藤仁美)といっしょにカラオケバーで歌う。
後者では、大統領機エア・フォース・ワンを乗っ取ったテリストの一団の要求に従って、ロシアで監禁されているカリスマ的な影響力をもつ将軍(ロシアに「共産」政権の復活をもくろんでいる)が獄舎から解放された瞬間、ともに獄舎に拘禁されている囚人たちが一斉に歌うのである。
おもしろいのは、この二つの例で、「インターナショナル」が、全く異なる意味をもつことだ。『バウンス ko GALS』では、そのヤクザが、明らかに、元「全共闘」かあるいは60~70年代の政治活動に関わっていたことをにおわせ、その時代への愛着と、なんらか解放的な意味を込めてこの歌が使われている。他方、『エアフォース・ワン』では、明らかに、「インターナショナル」は、官僚主義と全体主義が支配する旧ソ連、いささかスターリン時代の色メガネで見すぎた旧ソ連を象徴する歌であり、解放ではなくて、拘束と不自由、さらには(自由主義者にとっては)恐怖の歌である。
しかし、「インターナショナル」は、たまたま「共産主義」国家の歌になってしまったとはいえ、本来、「国家」とはなじまない歌である。そもそも、「共産主義」国家というもの自体が、初めから言語矛盾を起こしている。

日本語は、なんでも特種語にしてしまうので、時代がたつと語の意味がさっぱりわからなくなってしまう。そういうときは、一旦、もとの言葉に返って考えなおしたほうがよい。
共産主義とは、言うまでもなく、communismの翻訳だ。しかし、communismのcom-はcommunicationのcom-であり、communeやcommunityのcommun-である。では、これが、なぜ共「産」なのか? 「共」は「ともに」「いっしょに」だから、com-の含意を翻訳している。しかし、communism のどこに産業の「産」があるのか? おそらく、これは、この概念が日本に入ってきた時代と関係がある。
1918年(大正7年)に発行された新語辞典『新しい言葉の字引』(實業之友社)には、「コンミュニズム」という項目があり、そこを見ると、「『共産主義』を見よ」とある。そこで、「共産主義」を見ると、そこには、「階級制度、私有財産を破壊して、分配が各人の任意に放任し、各人が自己の欲するがままの仕事に従い得るために、獲財の徒労を省こうとする主義。一部の人間に唱道[ママ]されている」、とある。
なかなかよい定義であり、これならば、「共産主義」を信奉るすのも悪くないと思うひともいるかもしれない。だが、すでにこの定義のなかでも、「分配」とか「仕事」とか、要するに「産」業や労働との関係でこの言葉が使われている。しかし、communisumという言葉のなかには、元来、そういう「建設的」な意味はないのである。あるのは、「いっしょに」なにかをするという共同と連帯の要素である。それが、いつのまにか、「いっしょに」働き、国家を建設する旗印になってしまった。
だから、わたしは、かつて書いたことがあるが、communismは、「共〈産〉主義」ではなくて、「共〈場〉主義」と訳したほうがいいと思う。それがフィジカルな場であれ、サイバースペースであれ、その場を複数の人々が共有し、コミュニケーションをかわすある様式――これがcommunismである、と。が、いまなら、なんでもカタカナばやりのご時世でから、「共場主義」なんてダサい言い方はやめて、あっさりと「コミュニズム」といっておけばいいだろう。

コミュニズムが、「共産主義」という言い方に含意されているものとしてではなく、《場》や《コミュニケーション》との関連で理解されなければならないということは、すでにフェッリクス・ガタリがトニ・ネグリ(Toni Negri)との共同論文「連帯の新たな諸線」(Les Nouvelles Lignes D'Alliance, 1984)(これは、のちに『自由の新たな空間』Les Nouveaux Espace De Libert€ロ, 1985として出版された――邦訳:朝日出版社)のなかで示唆している。わたしも、ガタリから送られたこのタイプ刷りの論文を読んでから、「共場主義」という言葉を思いついたのである。

「コミュニズムという語は、汚辱にまみれている。なぜか? というのは、それは、集団的な創造の可能性として労働を解放するということを示してはいるが、実際には、ひとはそこに集団主義の重圧のもとに人間が押しつぶされることの同義語を見出すからである。が、われわれの場合は、この語を、《個人的ならびに集団的な特異性[singularit€ロs] のひとつの解放》の方途、つまり、思考と欲望の体制化とは正反対のものと解する。」

ここで言われている「サンギュラリテ」とは、もともとは数学用語の「特異性」(singularity) や「特異点」(singular point)に触発されて、ジル・ドゥルーズが発展させた概念(『差異と反復』参照)であるが、ガタリは、これをさらに、言語学や分子生物学の諸概念とからめて用いる。
だから、この「サンギュラリテ」を、もとの意味を離れて、個々人や集団の独自の能力や個性、一回的な出来事を生み出す欲望の創造性といった意味に理解することも許されるだろう。そして実際に、ドゥルーズやガタリがこの語を用いるときには、おおよそそんな意味に解されてきた。
ドゥルーズとガタリは、『アンチエディプス』や『千のプラトー』のように、多くの著作を連名で発表してきた。彼らの執筆方法は、わたしがガタリ自身からきいたところでは、まず、議論をし、語りあうというやりかたで最初のテキストをつくる。おそらく、そこでは、ガタリの「声」が声高になる。独特の造語の多くはガタリの創造と思いつきに由来する。だが、キーワードの概念的な強度を固め、文脈のあやうさを確固としたものに組みなおすのはドゥルーズだ。
ガタリの思考は、音声的であり、抽象的な概念を社会的・政治的なダイナミズムのなかに解き放つ。こうして、たとえば、アルトーの「器官なき身体」という概念は、その抽象性を脱してたとえばDonna J. Hararawayが「サイボーグ・フェミニズム」を論じるなかで好んでとりあげるLynn Randolphの絵が想起させる世界とリンクし、またMark Deryが "Escape Velocity"(松藤留美子訳『エスケープ・ヴェロシティ』、角川書店)という言葉で総称した、電子的環境のもとでの身体の消失という事態ともハイパーにリンクしていくことができるのである。

しかし、ドゥルーズとガタリのテキストを、ガタリの思考の方向性で読み開いていくだけでは、最初から二重性をはらんだ(わたしの言い方をするならば、「参照点」referenceに富んだ)このテキストにとっては不十分である。どうしても、ドゥルーズの――どちらかというと高度に抽象的な視覚性をもった――思考の方法をたどりなおす必要がある。
たとえば、先の「サンギュラリティ」だが、それについて、ドゥルーズは、こういう言い方をする。

「問題あるいは《理念》は、真の普遍性であり、それにおとらず具体的な特異性である」(財津 理訳『差異と反復』、251ページ)

「反復とは、数々の特異性を、つねに反響のなかへ、共鳴のなかへ投擲することであり、この反響、この共鳴において、それぞれの特異性は互いに他の分身になり、それぞれの星座の再配分になるのだ。」 (同、305ページ)

こうした言い方は、明らかに、トポロジー幾何学において問題になる「特異性」を視覚化した言い方である。

幾何学に視覚化が必要であるか、あるいは、図形を描くことが幾何学にとって意味があるかどうかについては、議論がある。数学は、《理念的》なものであり、そこで概念化されているものが「実在」しなくても一向にかまわない。だから、図示された丸や四角を見ながら初等幾何学の問題を解く者は、そうした図形のなかに《理念的》なものを直観しているのであって、建築の設計図面を見るのとは根本的に異なる思考の姿勢を要求される。
だが、今世紀になって、数学と図形の関係を大きく変える事態が生じた。コンピュータの発達である。コンピュータは、当初、初等幾何学の解答者が紙に円や四角を描く程度の図形しか表示できなかったが、やがて、その図形表示能力は限りなく進んだ。コンピュータが描く図形と「実在」世界との差はかぎりなく縮み、前者は、「ヴァーチャル」な「現実」となった。
ここでおもしろいことが起こる。これまで、《理念》的な想像力と「想像変更」(Husserlの言葉)によって紙の上の作画を操作していた者が、コンピュータの画面上で、いわば《理念》的な想像力も「想像変更」もなしで数学することができるということが可能になったのである。
コンピュータを操作する者は、無意識のなかで、図形を描きながら幾何学問題を解いているのと同じことをしているわけだが、モニター画面にあらわれる図形のなかには、もはや、かつてのような《理念》を見ることはない。それは、依然として《理念》ではあるが、超越的な理念ではなくて、〈実質的〉(virtual)な理念であり、あえてそれを「理念」と呼ぶにはおよばないところまで普遍化してしまったような理念である。

その意味では、コンピュータは、万人を無意識の「数学者」にする。しかし、この数学者は、《理念化》という思考の操作をせず、ひたすら(無意識に)《理念》を見る(ながめる)――《理念》と知らずに《理念》をながめている。が、思考ということで、瞑想とは区別される反省的な思考を意図するならば、こうなると、コンピュータは、それがすぐれた機能を発揮すればするほどわれわれを〈思考〉から遠ざけることになる。実際、われわれは、高度な3次元立体をコンピュータで作画しながら、そのプロシージャーを成り立たせている数学的な演算や諸定式を意識しないことが多い。だから、こような事態の前半化は、数学の終焉を示唆しているかもしれない。最後の「数学者」としてのコンピュータ・ユーザー?

いまますますはびこっているコンピュータに関する誤解は、コンピュータが、現実(「実在」世界)を映す鏡であり、さらには、現実を生み出す装置であるという認識である。たしかにコンピュータは、「ヴァーチャル」な現実を生み出しはするが、それは、あくまでも「ヴァーチャル」(実質的)なものでしかない。コンピュータが生み出すのは、《理念的》世界なのだ。コンピュータは、《理念的》世界と「実在」世界とのあいだを「ヴァーチャル」に媒介できる有力な装置であるが、どちらか一方の代わりをすることはできない。
最近よく話題になる「カオス」や「複雑系」も、本来は、《理念》的世界に属している。それらは、「実在」世界を「説明」するわけではないし、「表現」するわけでもない。が、それにもかかわらず、数学的な世界が、「実在」世界と等価なものであるかのような認識がはびこるのは、コンピュータが、《実質的》(virtual)に「実在」世界と同等の複雑さと多面性を知覚化できるようになったからである。
このことは、コンピュータでいかにも「実在的」な、「生々しい」映像を見ているとわかりにくいが、逆に、フラクタル図形でも、面体状双曲多様体でも、エッシャー的な空間でもなんでもよいから、「実在」しそうにない抽象図形を見るる場合には、幾分納得できるだろう。

したがって、数学そのものにとっての数学と、コンピュータにとっての数学とは、基本的に違うものである。数学にっとって、コンピュータは不可欠のものではない。しかし、コンピュータを介することによって、数学はひとつの表現になる。くり返すが、数学は、表現ではなく、《理念》の定義である。数学にとって表現のレベルが関わるのは、数学的に定義された《理念》を「ヴァーチャル」な方法で知覚できるような手段が与えられるときでしかない。それは、数学自身にとっては、不可欠な手続きではない。

たとえば、先の「特異性」であるが、数学の教科書でなされる「特異性」についての記述は、諸定義と定理の集積であり、知覚することをもって「現実」を認識したとする習慣に身を置く者には、実に非「実在的」な印象をあたえる。それは、「直角三角形ABCの斜辺BCを1辺とする正方形の面積は、辺CAを1辺とする正方形の面積と辺AB上に作った正方形の面積の和に等しい」という「三平方の定理」を頭のなかだけで反復するときに似ている。この定理は、紙の上に三角形を図示して実際に図形を知覚すると、一挙にわかった気になる。むろん、これは、数学自身にとっては、どうでもよいことである。では、それに似たことを「特異性」についてやることはできるのか?
George K. Francisは、『トポロジーの絵本』(A Topological Picturebook, Springer-Verlag, 1987、笠原晧司 監訳、シュプリンガー・フェアラーク東京)のなかで、コンピュータの力を借りながら、「ホイットニーの傘」を図示するなかで、「特異点」を以下のように知覚させる。

「与えられた点が、そのどんなに小さな近傍をとっても、少し曲がった円板のように見えないとき、その点は特異点[この3字ゴシック]といわれる。安定な写像は一般に3種類の特異点をもつことができる。まず、2重点[この3字ゴシック]と呼ばれる特異点の近傍では曲面は2重線[この3字ゴシック]と呼ばれる曲線に沿って交わる2枚の布切れのように見える。3重点[この3字ゴシック]と呼ばれる特異点の近傍では3枚の布切れが互いに交わっているように見える。つまり3重点は孤立しているのである。(中略)上に述べた2重線は、閉じているか、無限に伸びているか、へりに達するかあるいはピンチ点[この4字ゴシック]という非常に特殊な点で終わるかのいずれかである。ピンチ点の近くでは曲面はホイットニーの傘[この8字ゴシック]のようになっている。[図左上の]ラインパターンにおける矢印は傘の輪郭線に関する重要な接点を示す。ピンチ点は3番目の安定な特異点である。」

この記述と図解によって、純数学的な意味での「特異点」についての理解が深まるかどうかは、わからない。せいぜいのところ、教養的な理解が深まるにすぎないかもしれない。だが、数学から、数学とは別領域の着想を得ようとする場合には、これらは、非常に実り豊かな示唆を与えてくれるだろう。というのも、こうした記述と図解は、数学的世界(《理念》的世界)と知覚的な「実在」世界との中間地点を問題にしているからであり、まさに今日のコンピュターが身を置いている地点を示しているからである。 ところで、ドゥルーズは、まさにGeorge K. Francisがコンピュータとペンを使いながらやったような手続きをコンピュータなしで、《書く》という思考の手続きのなかで行ったのだった。だから、彼の記述は、コンピュータがその媒介の機能を高度化していけばいくほど、説得力をもつはずである。一例を示そう。

『千のプラトー』のかなかで彼(本書は、前述のような共同作業の産物だが、この個所は明らかにドゥルーズの記述と思われる)は、Albert LautomanのLes Sch€ロmas de Structureの「一つの近傍から次の近傍への連結は定義されないまま無数の仕方で行なわれうる。こうして、最も一般的なリーマン空間は、互いに関係づけられることなく並置された断片からなる不定形の集まりという様相を呈する」という純数学的記述から、次のような知覚的な記述に跳び移る。

「ロートマンのこの実に美しい記述にならえば、リーマン空間は一つの純粋なパッチワークである。それは、数々の触覚的な連結や関係を持ち、計量的空間に翻訳が可能とはいえ、他には見られないリズム的価値を持っている。それは不均質で連続変化のうちにあり、不提携で均質でないものとして一つの平滑空間である。(なお、すぐ先のページでこの「平滑空間」の「一般的な数学上の定義」としてmandelbrotの「オブジェ・フラクタル」を挙げている)。」 (宇野邦一・他訳、河出書房新社、531~2ページ)

ドゥルーズは、ここで数学を哲学に応用しているのではない。コンピュータでフラクタル空間を表示することによって、リーマン幾何学を、「応用」という形ではなく、むしろ《polymorphous》な《リンク》という形で一挙に編み合わせ――weave - web――してしまうこと、数学の世界を数学とは別の仕方で思考しなおすことによって、数学そのものを越えてしまうようなポスト・マセマティカルな思考を実践しているのである。これは、また、コンピュータをメディアとして表現活動をしようとする者にとって、多くの刺激を与えてくれるだろう。
(UNIX MAGAZINE、1997年12月号、pp.156-160)